ご神体

大国主神とは

延長5年(927年)に纏められた延喜式神明帳に載る摂津国・菟原郡(のちに武庫郡に合併)に鎮座する「大国主西神社」は当社と比定されています。


「大国主大神」は、様々なお名前をお持ちであり、そのご神徳も多岐に渡ると言われています。皆さんも一度はお聞きになられたこともあるでしょうが、例えば「大穴牟遅(おおなむぢ)大神」、「大地主(おおとこぬし)大神」、「大物主(おおものぬし)大神」、「大國魂(おおくにたま)大神」など、地上地下万物の生育発展、人間及び生物の生命を司っている偉大なる神格・神徳をお持ちになられており、その力を表す言葉として多くの神名でお祀りされています。


大国主西神社は、特に大地を司る神・大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)として末社「土社」にお祀りされています。石で組まれた大変古いお社であり、大国主西神社の姿を今も残しています。

  • ご神体写真
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創始・地震の神様として

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    大国主西神社の創始は、600年~700年頃と推定されます。


    「こしき岩」は「越木岩」という字も使われますが、「甑(こしき)」に似ているので「甑岩(こしきいわ)」と言われるようになったのです。


    それは、大国主大神はそのお力によって、大地を司ることから地震を起こす神様ともいわれていることから説明できます。


    推古天皇の時代(599年)、『日本書記』に日本最古の地震として記録される“推古地震”が起こります。地震が発生し建造物が悉く倒壊し、推古天皇は「則ち四方に令して地震の神を祭らしむ」として、飛鳥からみて四方、東西南北に命令して地震の神、つまりオオクニヌシを祀らせます。その中の一社が当社であろうと推定されています。天武天皇の時代(684年)にも、極めて大きな地震があり、この頃には多くの方がお参りされ、延喜式神明帳に載るような神社となっていったのです。


    ここに祀られた当初は、オオナムチ神社であった可能性もあるようです。奈良・吉野に大名持神社が鎮座しますが、同様にオオナムチとされ、オオナムチからオオクニヌシとなり、東西南北の東にあたる大名持神社と一対として、“西”にあたるので「大国主西神社」と呼ばれるようになったと考えられています。


    オオナムチのオオというのは大きいという意味です。そしてオオナムチのナというのは「つち」という意味の古い言葉です。(細かい土を「スナ」、赤土のことを「ヘナ」といいます。)またオオナムチのムチというのは尊いという意味になります。現在「土社」と呼ばれていることにも通じます。


    大名持神社は、吉野渓谷への入口、吉野川右岸の妹山の麓にあります。平安時代はじめに、日本全国の神様に朝廷から位を授けることになったとき、この神の位が正一位を授かった神社です。徳川の時代に神殿が建立されましたが、それまでは完全にご神体は山そのものだったといいます。これは奈良の三輪山をご神体とする大神神社も同じで、神社の社殿が成立する以前の原初の神祀りの様を今に伝えており、信仰の対象はどちらもこんもりと丸く盛り上がった山(このような山の形をカンナビ型などといいます)です。


    同様の形状をした山が当社の北北東にある甲山(かぶとやま)です。都より西に向かった時、六甲山系の東山麓に見えた円錐形の甲山はご神体山を思い起こしたはずです。また、当社に鎮座する甑岩から、北へ続く磐座群や北山、そして甲山へと続く地形は聖地として、オオナムチを鎮め祀るため、東西一対をなす相応しい場所であったのです。


大地を司る神として

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    大国主大神の異なる神名の一つ「大地主大神」は、大地を守護する神格・神徳によるものです。建築や土木工事の始まりにあたり、建築に関わる神様、その土地の神様に建築許可を願いお鎮まりいただくと共に感謝の気持ちをお伝えし、工事の無事安全を祈願する地鎮祭では、大地主大神を筆頭とした神々に祈願します。


    当社は大国主大神・大地主大神をお祀りする由縁もあり、そのご神徳を授かろうと、多く方々から地鎮祭をはじめ建築に関するお祭りのお申し込みをいただき、広く阪神間にてご奉仕させていただいております。


地鎮祭について